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少年時代を過ごした南湖院プールのこと
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| およそ85年前、南湖院院長高田畊安は、広い南湖院の敷地のなかに、この地特有の強い南西風を避ける場所を探し、リハビリテーション(以下リハビリと略す)用のプールを建設しました。 手元に残された資料の中に、南湖院の時々を写した示唆に富む「絵はがき」があります。「先人に学ぶ」この絵はがきの写真に、私自身の想像・経験・思い出を加え、昔々の施設のお話をします。このプールは、その後大きな改修工事等をすることもなく、約50年間使用することができました。ここで得た知見は現在の太陽の郷リハビリテーション研究室プールに生かされています。 |
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| <プール建設の時期> | |||
| 南湖院プールの建設には院長の治療への思いが込められているように思います。関東大震災から数年後、プールは建設され、活動を始めています。 | |||
![]() (Fig1) |
左の写真(Fig1)は、南湖院の本丸的存在であった第5病舎(愛光室)の建物です。建物中央に尖塔(見晴らし台)をもつ、院長自慢の建物でした。 しかし、関東大震災の激震により薬局から出火、消失します。 |
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| 焼け跡に建てた新しい診療・運営の中枢となる建物です。以後この仮施設は第5病舎といわず愛光室とよびました。(この建物も外形を変えず、75年間そのまま使用し続けました) |
![]() (Fig2) |
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| 南湖院の代表的建物だった第5病舎を復元せず、ごく簡素な仮建築的な愛光室で済ませた上、収入には全く縁のないプールを同時(代わり)に敢えて建設した理由は?明治の人院長の思惑は、一体何だったのでしょうか。昭和生まれの私は、次のように想像します。 「本人が持っている治癒能力を引き出す」こと、「自らが病を治すこと・闘病生活」を創設以来推奨し続けてきた院長にとっては、尖塔の見晴台をもつ第五病舎の復元より、リハビリ用プールの建設を先行することが、当然のことだったのかもしれません。 明治40年頃の写真に、松林での「弓道」(Fig3)や、クレイコートではないサンドコート?での「庭球」(Fig4)の写真があります。結核療養所には似付かわしくないように思えますが、これもリハビリとしてお勧めだったのでしょう。 |
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![]() (Fig3) |
![]() (Fig4) |
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| 南湖院創設当時から20年間、院長が抱き続けたリハビリ用プール構想を、震災直後の疲弊した時期に、闘病生活者への贈り物として敢えて実現したとも考えられます。 | |||
| <建設場所の選定> | |||
| 広い南湖院の敷地は、ほぼ中央にある砂丘で南北に分かれています。南は高く砂浜(海岸)に続き、北は低く300年前には、相模川支流が流れていたと考えられます。(敷地を掘ると出てくる宝永山噴火時の軽石と火山灰による推測) 祖父は、この砂丘の北側斜面の中腹をプールの建設場所として選びました。選択理由を想像してみます。 「南湖(当地)の家は辰巳(南東)の方向に建てろ」と村の古老はいいます。 南湖院は、当時すでに砂丘の上に強い南西風をかわす辰巳の方向に、第2・第3・第4病舎の平屋を建て、松苗を多量に植えて強風対策に努めてきました。 それでもなお、春から秋にかけての強い海風は、裸の体から体温を奪うことになり、リハビリ環境(水泳環境)には適しません。構築物に頼らず、「自然の地形(砂丘)を上手に利用すること」で防風を達成する。創設以後20年間、海風対策に奮闘してきた祖父の脳裏をかすめたのが、「砂丘の北側地形の利用」だったのでしょう。 最も風が弱まる砂丘の最下部にプールを作らず、中腹を建設地に選んだのは、プール水を自然放水できることが必要だったからでしょう。南湖院敷地の北側は、震災の前はしばしば洪水被害に見舞われるほど低かったようです。関東大地震により隆起したとはいえ、深さ2mのプール水を自然放水するには、砂丘の中腹に建設するのが安全です。 利用者には温熱環境と水のきれいさを、プール管理者には維持管理のし易すさを、外に出れない院内の療養者には、景観および騒音問題を配慮するなど、本当に細かく検討された施設であることがわかります。 |
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| <プールの構造> | |||
| 大正15年、今から85年前に作ったプールの詳細を知るため、数枚の絵はがきと、少年時代の記憶、戦後の米軍接収解除後に実施したサマーキャンプ当時の経験を素材に、リハビリ環境構築への意気込みを読み取ります。 プールの構造は当時よく取られていたプール様式を模倣したものではありません。奇抜さを前面に出し、人目を引くものでもありません。はっきりしているのは、理論に忠実な質素な作りの施設であることです。 |
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| <きれいな水を維持するために> | |||
| ごくごく最近のテレビ映像等から判断すると、三次元の水流分布を意図した循環ろ過方式のプールが、ようやく一般化してきたようですが、大正年代の日本のプールに、三次元の換水を考えたプールがあったでしょうか。恐らく皆無であったと思います。新しい水をプールに満たして泳ぎ、汚れたら水を捨ててプール掃除をする。これが当時の普通の運用方法で、藻の発生防止には硫酸銅を、消毒にはカルキ(次亜塩素酸カルシューム)が使われたと聞いています。(屋外プールの場合) | |||
![]() (Fig5) |
南湖院のプールは、常時井水を供給し続けながら、深さを変えた6カ所の排水口から排水し、更にプールサイドからのオーバーフローを実施したプールでした。模倣ではなく、南湖院独自の換水方式ではないでしょうか。 (Fig5)は、プール側壁にある排水口を示します。排水口は、井水供給口のある側の反対側の両サイドにあります。 |
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![]() (Fig6) |
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| (Fig6)の写真で、プールサイドからオーバーフロー(溢れ出る)させている様子が分かります。 | |||
| <競泳用でないプール> | |||
| プールの中央にある鋳鉄製の柱(Fig6)は、夜間照明用ではないようです。飾り柱でしょうか。ことによったら、リハビリの邪魔(障害)になる競泳を制止するため、わざわざ障害物を置いたのかもしれません。 南湖院のプールは、尺単位(72尺×33尺)です。当時の競泳用プールも、「尺」単位だったのでしょうか。「100尺 よこのし・蛙泳ぎ競争、時間○○秒、大会新記録」こんな新聞記事があったかもしれません。 |
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| <安全性を高めるため> | |||
| プール南側に二カ所ある入出用階段は、足元の安全と、急激な温度負荷を和らげる階段と推測されます。 南湖院には、裸で日光浴をする施設がありました。直射日光の照射(日光浴)を、足先から始めて、時間を決めて徐々に全身に広げる負荷軽減思考で実施していました。同様の考え方で、この階段が用意されたように思います。階段の手摺りは、安全と同時に、浮力をなくした体重を持ち上げる助けとなると考えられます。 |
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![]() (Fig7) |
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| (Fig7)の写真では、大きな松の枝がプールに大きく張り出ています。プール表面(プールサイド)を木陰にするためか、飾りなのか、枝を支持する支柱まで作って大事にする理由は何だったのでしょうか。 松の木陰に座った婦長さんが、懐中時計を片手に、「○○さん、時間ですよ。」と、遊泳時間の終わりを告げる声が、なぜか少年時代の私にとても怖く感じられた記憶があります。邪魔者としか見えなかった松の枝、水面に落ちた松葉を長い柄のすくい網ですくっていましたが、子供の私には、残念ながら重く長くて扱えませんでした。 |
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| <衛生管理> | |||
| さらし木綿の袋にカルキ(次亞塩素酸カルシュウム)を入れ、紐で縛ってプール水際を一巡し、最後に南中央の給水場所に縛り付ける消毒法は、カルキを可能な限り均等に広げようとする意図からされたものでしょう。 | |||
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| <波とオーバーフロー> | |||
| 南湖院プールは、結核療養者のリハビリ用(冬期には養魚池)として終戦までの20年間使用し、敗戦後には進駐軍に接収されたので、その後の10年間はどのように使用されたかは定かでありません。 昭和31年旧南湖院の接収が解除されると、医学部を卒業したばかりの私に、プールの維持管理のすべてが覆いかかってきました。戦後10年「驚異の復興」の社会に放り出された旧南湖院は、ライフラインの大部分を失っているばかりでなく、多くの建物は明らかな構造上の欠陥があり、療養所には到底利用できる状態ではありませんでした。 そこで、収入が全く途絶えた旧南湖院の広大な敷地と使うことができなくなった建物の維持管理のため、年間2ヶ月ですがサマーキャンプを開設することにしました。半世紀昔のことです。当時はプールの中央に飾り柱(邪魔物)があるプールでも、サマーキャンプの主役(宣伝材料)として使えました。 プールの水張りには丸二日が必要でした。この井戸ポンプが故障したり、コンプレッサーによるペンキ塗りで、マスクなしで作業した証として鼻毛がブルーに染まったり、様々な思い出があります。 月のない夜でした。満水になったかを見にプールに近づくと、給水口からの水音が聞こえません。満水状態なのでしょう。すでに、プールサイドから溢れていました(オーバーフロー)。誰もいません。裸のまま飛び込みます。2日かけて入れた水ですが、大変冷たく感じました。暗闇で平泳ぎを続けるうち、不思議なことに気づきます。ターンして水面に出ると、泳いでできた筈の波がなくなっているのです。中高校時代、抵抗の少ない平泳ぎ泳法を考えてきましたが、息継ぎ(呼吸)時に気になるのが水面の波です。波のない水面は暗くても、上下動の少ない泳法の私には、大変泳ぎ易く感じました。泳ぎの航跡を消してくれたのは、プールサイドからのオーバーフローだったのです。 戦後復活した国体水泳競技・平泳ぎのファイナリストに私を育んでくれたのは、他ならぬこのプールであったと今でも確信しています。私の青春時代の懐かしい思い出の1つです。 |
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| <南湖院プールから太陽の郷プール建設へ> | |||
| 説明のない写真(レントゲンフィルム)から、体に起こっている変化を知ることを、医師仲間では「レントゲンを読む」といい、読み方を研究し訓練します。ここまで、現存する古い古い絵はがきから、先人の考えを読み取る努力をしてみましたが、想像を逞しくすればするほど、先人の偉大さがわかってきます。先人の教え・伝統を、何と表現したらよいのか。
1983年(昭和58年)、太陽の郷は旧南湖院のプールを参考に、室内温水プールを創りました。太陽熱を押田勇雄理論に基づいて有効に利用した室内プールで、化石燃料の消費量を極端に抑えて温熱環境を整えることができるなどユニークなアイディアに満ち満ちています。自然エネルギーの巧みな利用が、空調暖房装置のいらない施設を実現しました。 |
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| <フィンランド方式(オーバーフローさせるタイル)> | |||
| 2年以上かかったこのプールの計画・設計のなかに、旧南湖院プールにあった入出用階段と、オーバーフローを含む三次元の水流分布の知見の再現があります。 闇夜のプールでただ一人経験した波が消失したプールの快適さを、砂浜の波打ち際で見られる平坦な引き潮を、室内プールで実現する消波装置ができないか。温水プールの水は、熱ロスを抑制するために捨てたくない。三次元の水流分布で均等な水質が保持できれば、水質管理は容易になる。などを実現したかったのです。 旧南湖院のプールの構造を真似しよう、この様式を「なぎさ方式」いや「みぎわ構造」と呼ぼうなどとしばらく検討を楽しみました。やがて、「フィンランド方式」と称するプール用の縁タイルが輸入されているのを知り、躊躇なくこの特殊なタイルを使って消波を実現しました。「フィンランド方式」は、この縁タイルを使ってプール水面とプールサイド床面を同レベルとし、プール周辺に側溝を設けてオーバーフロー水を回収循環させるもので、消波に加えて三次元の水流分布や均等な水質保持にも有効です。三次元の水流分布や均等な水質保持には、このほかにも工夫を施し、身分不相応に立派なプールができました。 現在太陽の郷の隣地にあるプールは、20年前に創った太陽の郷スポーツガーデンのプールのミニ版ですが、考え方は同じものです。 このプールの詳細については、後日お話しますが、快適さを実感するため、一度ご利用下さい。 |
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2009年3月 高田準三
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