南湖院の歴史

太陽の郷の地には、かつて東洋一のサナトリウム(結核療養施設)と謳われた「南湖院」がありました。
南湖院の歴史をひも解いていきましょう。

■南湖院(1899~1945):東洋一と謳われたサナトリウム(結核療養施設)
■創設者:高田畊安(1861~1945)
丹後国中辻村(現舞鶴市)の生まれ
医師でありクリスチャン
京都府立医学校(明治17年卒)、東京帝国大学(明治22年卒)を経て、ドイツ人医師ベルツに学ぶ
■敷地面積:5万坪、建物面積:4500坪、病棟数:14棟、病室数:158室
■入院者数:200人。関東近辺が多いが全国に亘り、台湾など海外からも

「南湖院」は、1899年(明治32年)、医師高田畊安によって創設されました。
この頃、結核は不治の病と恐れられ、治療法としては「大気・安静・栄養」と言われていました。畊安は、空気清涼な地として、半農半漁の一寒村であった茅ヶ崎村字西南湖下(にしなんごしも)に土地を求め、結核療養施設を創設しました。「南湖院と高田畊安」(川原利也著)の冒頭に、この辺りは「茫洋とした砂地であった」とあります。院の名称は地名の南湖(ナンゴ)によりますが、濁音を嫌う畊安は「ナンコイン」と称しました。
この地図は、明治40年頃の南湖院周辺です。「南湖院」の敷地輪郭は昭和10年頃の最盛期の広さ(約5万坪)を表しています。

この文章は、昭和1412月発行の「南湖院一覧」(南湖院を総括した冊子)の「歴史」章冒頭です。

畊安が、地元高橋愛太郎・今井又兵衛両氏より5,568坪の土地を取得、明治32年3月起工、5月に伊藤里之助村長・菊池小兵衛郵便局長ら土地の有力者及び付近の民衆を迎えて上棟式、9月竣工といった経緯で南湖院第一病舎を建設したこと、10月11日病院の認可を得、最初の入院患者3名(勝海舟先生未亡人・首藤(諒氏)婦人・佐藤日本新聞記者)を迎え入れたことなどが記されています。

第一病舎は今も太陽の郷の一角に現存します。

南湖院は逐年発展の一途をたどり、昭和初期には敷地面積5万坪を数えるようになり、建物面積4,500坪、病棟数14棟、病室数158室、1日の平均入院患者数200人といった規模を誇り、東洋一と言われるようになります。この図と航空写真は、昭和10年頃の南湖院の全体像で、赤の点線は現在の太陽の郷の敷地(約9500坪)を表しています。

主要施設の建設年を示します。

第一病舎(竹子室) :明治32年
第二病舎(宗正室) :明治34年
第三病舎(守正室) :明治38年
第四病舎(正道室) :明治39年
第五病舎(愛光室) :明治43年
第六病舎(盛義室) :大正元年
洗濯所 :大正2年
測候所 :大正3年
第七病舎(君乃室) :大正3年
第八病舎 :大正5年
第九病舎 :大正6年
第十病舎 :大正6年
医王堂(大会堂) :大正7年
第十一病舎(念一室) :大正10年
愛光室(仮本館) :大正13年
院長室棟 :大正15年
第十二病舎 :昭和2年
隔離病舎 :昭和3年
愛光室別館(医局) :昭和5年
徳太室 :昭和6年
気楽舎(軽費病舎) :昭和7年

病棟は、木造の平屋か2階建です。広大な敷地構え、病棟間に距離をおいた建物配置に、周辺地域への配慮と、排菌者病棟と非排菌者病棟を離して院内感染を避けようとした畊安の意図をうかがい知ることができます。各病棟は、風雨を凌ぐことのできる長い渡り廊下で繋がれていました。

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