南湖院の歴史

南湖院の敷地

2018/11/14

昭和11年頃の南湖院の敷地と施設の全貌です。
南湖院は明治32年に創設されました。この頃の茅ヶ崎は半農半漁の村でした。
記録によれば、「明治31年、高田畊安は高橋愛太郎氏より茅ヶ崎村字西南湖下の畑及山林十五筆合計4213坪、又今井政兵衛氏より同所畑三筆合計1355坪、総計5568坪の土地を購入し、同31年10月21日に登記を了したり」とあります。(「南湖院と高田畊安」(川原利也著))
その後南湖院は拡張し続けて、最盛期の昭和10年代には敷地面積5万坪を数えるようになりました。

 

南湖院の建物を建てた棟梁は小島伊勢松氏(安政6年~昭和14年)であると言われています。伊勢松氏の長男・隆太郎氏によると、第1病舎を初めとする初期の建物は岡本鶴蔵棟梁の手になるものであり、第7病舎あたりになると、「洋館士」と呼ばれていた今日の「設計士」の小野五兵衛氏の手になるものであるといいます。この二人は畊安が東洋内科(南湖院の本院)時代の係りあいで茅ヶ崎に呼んで来た人たちであり、地元の大工として建設に当ったのが小島伊勢松氏ということになります。(「南湖院と高田畊安」(川原利也著))

 

第一病舎は、明治32年(1899年)に建設されました。
木造・2階建て 延床面積:68.75坪 病室数:10

第一病舎の建築的特徴を見ていきます。
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第三病舎は、明治38年(1905年)に建設されました。
木造・平屋建て 延床面積:128坪 病室数:19室

第三病舎の特徴を見ていきます。

全景写真で開口部上部に換気窓が見られます。
「南湖院一覧」(昭和14年12月発行)に、病室防虫装置という項があり、「第三病舎は夏期金網戸に由りて蚊を防げり(既に20年以上之を用う)。又隔離病室も金網戸を以て昆虫を防げり。」との記述があり、第三病舎と隔離病舎には窓に網戸が設置されていたことがわかります。

建物南側に少し離れて建つのが海気室で、外気に当たる患者の姿が確認できます。

玄関庇上部に、「守正」の2文字と、ローマ字で「TITIDONO」とあります。第三病舎は、畊安の父の名を冠して「守正室」と名付けられました。

南側(写真左側)窓の外側に煙突状のものが並んでいますが、これが何か、どんな役割を担っていたのか興味深いものがあります。

第一病舎と第三病舎をつなぐ渡り廊下です。雨風の凌げる作りであることがわかります。

洗面場です。
2つ並ぶ蛇口は、給水と給湯と思われます。

第三病舎の設計図です。

大工小島伊勢松が高田畊安に出した見積書が残されています。

 

第三病舎には、明治41年2月に国木田独歩が入院しています。独歩を慕う文人たちがたびたび見舞いに訪れました。その時の写真と裏面に記されたメモ書きが残されています。田山花袋、正宗白鳥らそうそうたる面々が名を連ねています。
真山青果が読売新聞に独歩の病床録「国木田独歩氏の病状を報ずるの書」を連載し、世間が独歩の病気を知るところとなります。(川原利也著「南湖院と高田畊安」)
独歩は4ヶ月の闘病生活の末、他界しました。

 

<診察、病室>
 
高田畊安の診察の様子と病室の様子です。

<衛生施設>
 
 

サナトリウムには、周辺から忌み嫌われる側面がどうしても付きまといます。結核菌を外に出さない工夫が様々な局面でなされています。
細谷台と呼ばれる小高い台地の上に給水タンクが用意され、給水配管が各病棟・施設に巡らされて、上水が供給されました。トイレは水洗で、汚水等の排水は下水配管を経て汚水処理施設に導かれ、浄化されました。

 
これは屎尿焼却施設と、塵芥焼却施設・野菜屑焼却施設です。

 
汽缶室では、4台の汽缶(ボイラー)で高温の蒸気を作り、消毒・滅菌を初めとして、炊事、浴室、洗濯等に供給しました。高温蒸気は、病室や執務室の暖房にも利用していました。

 
喀痰の処置としては、手を触れずに足で開閉できる痰壺が置かれ、喀痰は集めて高温煮沸消毒されました。

<外気浴、日光浴>

日光浴も治療の大事な一環で、敷地内には静臥堂、海気室、日光浴場などと呼ばれる外気や日光に当たる施設が点在していました。

<測候所>
 
畊安は、結核治療と気候の関わりを把握しようとして、気象観測のための測候所を開業間もない明治34年に開設しています。畊安の医療への取組姿勢の一端を表わすものとして興味深いものがあります。ここでは、気象庁の公式記録とされるほどのデータ取りが行われていました。

 

 

 
病院の運営を支える組織として、 庶務課、会計課、物品課、電話交換室、裁縫室などがあり、医療を支える部門として薬室、レントゲン室などが整備されていました。

<炊事、洗濯>
 

 
炊事場、洗濯所が入院患者の日々の生活を支えていました。 また、売店、理髪店などが整えられており、日常生活には何不自由ない環境が整えられていました。

<運動施設>
 
社会復帰に向けて、プール、テニスコート、弓道場などの運動施設が設けられており、体力の回復に役立てられていました。

<衛生講話、医王祭、日曜学校>
 

 
林間会場や海浜会場では、畊安による衛生講話が講じられ、医王堂では、日曜学校がとり行われました。 畊安は、「医王祭」と称して毎年盛大なクリスマス会を開催しています。大臣や県知事を初め多くの著名人を招待し、南湖院の1年の動向を報告し、食事を振舞っています。南湖院絵はがきを配るなど世に南湖院を知らしめる場でもありました。一方、茅ヶ崎町民も多数招待し、日曜学校に通う子供たちの劇が上演されるなど、地域との交流を深めました。

<見学者>
 

 
南湖院は、医学を志す者にとって学ぶべきところが多く、多数の見学者が訪れています。

南湖院と文学

2018/10/04

入院患者には、国木田独歩(1908年)、八木重吉(1926年)らの文学者も多く、見舞いの文人を交えた文学交流が展開された場としても南湖院は有名です。

独歩を見舞う文学者たち(明治41年5月)

国木田独歩

南湖院の名を世に知らしめたのは国木田独歩の入院でした。独歩が入院したのは1908(明治41)23日、すでに病状はかなり進行していました。病舎前での記念写真には独歩を見舞った文学者たちが写っています。
そのうちの一人真山青果は、田山花袋のすすめで独歩の「病床録」を書き、読売新聞に連載されました。このことが、南湖院の存在を多くの人々に認知させることになったのです。

独歩が入院していたのは第三病舎、4ヵ月後の623日に逝去しました(37歳)。

八木重吉

詩人八木重吉は、市ヶ谷の東洋内科医院で結核の診断を受け、1926(昭和元)年5月、南湖院に入院しました(第九病舎)。
7月に、妻登美子が二児を連れて十間坂に移住して自宅療養が始まりましたが、翌年10月26日に亡くなりました(30歳)。

登美子は二人の子供も結核で失い、一人残されて1941年に南湖院に勤務するようになり、19455月に南湖院が海軍に接収されて閉院となる日まで事務職をつとめました。

 

 

 

 

大手拓次も南湖院で亡くなった詩人です。(1934年没、46歳)

平塚らいてう(1911(明治44)年『青鞜』創刊)

平塚らいてうと茅ヶ崎との関係は、姉が南湖院に入院したことによって始まりました。
『青鞜』2年目の明治45年、らいてう、尾竹紅吉、保持研子が茅ヶ崎に集ったため、『青鞜』編集部が茅ヶ崎に移った感がありました。つまり、明治末期の女性解放運動は、一時、南湖院が原点となったのです。

らいてうと奥村博史の運命の出会いも南湖院が舞台でした。博史かららいてうに送られた手紙の中の「若い燕」という言葉が、年下の男性の恋人を「若い燕」と呼ぶ流行語を作ることになったのです。

 

 

 

 

 

入院生活を送った文学者には、この他に、童話作家の坪田譲治、『大菩薩峠』の中里介山、詩人の秋山秋紅蓼、歌人の岩谷莫哀、随筆家で参議院議員の森田たまらがいます。

南湖院のこのような病院運営には、多くの職員や、物資を供給する地域社会の支えを必要としました。こうしたことから、茅ヶ崎市は、南湖院とともに発展してきたという側面を持ちます。

南湖院閉院後

2018/10/02

畊安の没後、この地は海軍による接収の時期(昭和20年)を経て、昭和21年~32年は米軍の接収するところとなります。
米軍からの返還後、1979年、畊安の孫にあたる高田準三によりこの地に有料老人ホーム「太陽の郷」が開設され、畊安の思想を受け継いだ運営がなされてきました。緑豊かな敷地内には南湖院の施設や遺構が点在し、大事に守られてきました。
準三(1929~2015)の没後、その遺志により、南湖院第一病舎は2015年12月、子息の高田耕太郎より茅ヶ崎市へ寄贈されました。茅ヶ崎市と太陽の郷は、第一病舎を核とする「南湖院記念 太陽の郷庭園」を2016年4月から一般公開しています。

2018年3月、南湖院第一病舎は、国指定の登録有形文化財に登録されました。

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