南湖院の歴史

南湖院の建物を建てた棟梁は小島伊勢松氏(安政6年~昭和14年)であると言われています。伊勢松氏の長男・隆太郎氏によると、第1病舎を初めとする初期の建物は岡本鶴蔵棟梁の手になるものであり、第7病舎あたりになると、「洋館士」と呼ばれていた今日の「設計士」の小野五兵衛氏の手になるものであるといいます。この二人は畊安が東洋内科(南湖院の本院)時代の係りあいで茅ヶ崎に呼んで来た人たちであり、地元の大工として建設に当ったのが小島伊勢松氏ということになります。(「南湖院と高田畊安」(川原利也著))

 

第一病舎は、明治32年(1899年)に建設されました。
木造・2階建て 延床面積:68.75坪 病室数:10

第一病舎の建築的特徴を見ていきます。

①第一病舎(南湖院アルバム(大正2年))

写真①は、大正2年(1913年)発行の南湖院アルバムに載っている第一病舎です。

主屋根は寄棟で、北側玄関部が切妻です。
写真を拡大すると、切妻屋根の三角ペディメントに「竹子」の2文字とローマ字で「HAHADONO」とあるのが分かります。畊安は第一病舎に母の名を冠して「竹子室」と命名しました。

屋根材は、瓦と見て取れます。棟梁小島伊勢松が、6年後に施工した第三病舎の見積書が残されており、そこに屋根葺材は三州瓦とありますから、第一病舎も同じ材が使われていたと思われます。
軒先には現在の第一病舎にはない雨樋があります。

外壁はイギリス下見板張り、1階腰壁部分が竪羽目でいずれも塗装仕上げです。開口部は1,2階同位置に上げ下げ窓が並び、鎧戸が付いています。鎧戸は現在は付いていません。2階窓上部の三角ペディメント、1、2階外壁を区切る胴蛇腹が、建物のアクセントとなっています。

基礎には石材が使われています。上記の第三病舎見積書に基礎材として「房州元名石」とあり、第一病舎でも同材が使われたと思われます。元名石は房総鋸山近辺の産、元名は石切り場の地名です。

 

ここから、第一病舎と周辺建物の変遷を見ていきます。

②左から第一病舎、事務室、職員室

写真②は、玄関横の植樹の育ち具合から判断して写真①より前のものと思われます。写真の説明文に正面の建物は「事務室(その頂には測候器)」とあります。畊安は結核と気象との関わりに関心を持ち、早くから気象データの取得に力を入れています。測候所が独立棟として建設されたのが大正3年のことですから、初めはここで気象観測が行なわれていたものと思われます。

③第一病舎航空写真(北東より 関東大震災後)

写真③は、関東大震災(大正12年)より後に撮られた航空写真です。撮影者は畊安の長男安正、写真を得意としていました。安正は、2014年第一病舎寄贈を服部茅ヶ崎市長に申し出た準三の父です。
④は、写真③部分の平面図です(「南湖院の敷地」の項で示した南湖院平面図からの切り出し)。③は右方が北、④は上方が北になります。

④南湖院平面図より第一病舎周辺切り出し

③④から、第一病舎の西隣の食堂、その北の炊事場の様子が分かります。また、南側には渡り廊下を挟んで第六病舎が、東側には大震災で焼失後大正13年に平屋で仮建設された愛光室が配置されています。
③を拡大すると、第一病舎の屋根葺材が瓦からスレートに代わっていることが見て取れます。

⑤第一病舎航空写真(南西より 関東大震災直後か)

写真⑤も、関東大震災より後の航空写真ですが、拡大すると屋根葺材は波板鉄板になっています。大震災で当初の瓦屋根が傷み、波板鉄板で凌いだと解釈できます。⑤の波板鉄板葺きを経て③のスレート葺きに至ったと推察でき、重い瓦葺きには戻さなかったことが分かります。

第一病舎(中央やや右)の右(東)が愛光室、左上(北東)が医王堂になります。愛光室(第五病舎)は、大震災で唯一焼失した建物です。当初の愛光室は2階建で中央に尖塔を持つ南湖院の象徴的建物でした。この写真は平屋で仮建設したものですが、南湖院の閉院まで再建は行われませんでした。因みに、愛光室は、国木田独歩の治療に当たり、その後若くして他界した中村愛子副長を悼んで名付けたものです。

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