南湖院の歴史

第三病舎は、明治38年(1905年)に建設されました。
木造・平屋建て 延床面積:128坪 病室数:19室

第三病舎の特徴を見ていきます。

全景写真で開口部上部に換気窓が見られます。
「南湖院一覧」(昭和14年12月発行)に、病室防虫装置という項があり、「第三病舎は夏期金網戸に由りて蚊を防げり(既に20年以上之を用う)。又隔離病室も金網戸を以て昆虫を防げり。」との記述があり、第三病舎と隔離病舎には窓に網戸が設置されていたことがわかります。

建物南側に少し離れて建つのが海気室で、外気に当たる患者の姿が確認できます。

玄関庇上部に、「守正」の2文字と、ローマ字で「TITIDONO」とあります。第三病舎は、畊安の父の名を冠して「守正室」と名付けられました。

南側(写真左側)窓の外側に煙突状のものが並んでいますが、これが何か、どんな役割を担っていたのか興味深いものがあります。

第一病舎と第三病舎をつなぐ渡り廊下です。雨風の凌げる作りであることがわかります。

洗面場です。
2つ並ぶ蛇口は、給水と給湯と思われます。

第三病舎の設計図です。

大工小島伊勢松が高田畊安に出した見積書が残されています。

 

第三病舎には、明治41年2月に国木田独歩が入院しています。独歩を慕う文人たちがたびたび見舞いに訪れました。その時の写真と裏面に記されたメモ書きが残されています。田山花袋、正宗白鳥らそうそうたる面々が名を連ねています。
真山青果が読売新聞に独歩の病床録「国木田独歩氏の病状を報ずるの書」を連載し、世間が独歩の病気を知るところとなります。(川原利也著「南湖院と高田畊安」)
独歩は4ヶ月の闘病生活の末、他界しました。

 

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