南湖院の歴史

南湖院と文学

2018/10/04

入院患者には、国木田独歩(1908年)、八木重吉(1926年)らの文学者も多く、見舞いの文人を交えた文学交流が展開された場としても南湖院は有名です。

独歩を見舞う文学者たち(明治41年5月)

国木田独歩

南湖院の名を世に知らしめたのは国木田独歩の入院でした。独歩が入院したのは1908(明治41)23日、すでに病状はかなり進行していました。病舎前での記念写真には独歩を見舞った文学者たちが写っています。
そのうちの一人真山青果は、田山花袋のすすめで独歩の「病床録」を書き、読売新聞に連載されました。このことが、南湖院の存在を多くの人々に認知させることになったのです。

独歩が入院していたのは第三病舎、4ヵ月後の623日に逝去しました(37歳)。

八木重吉

詩人八木重吉は、市ヶ谷の東洋内科医院で結核の診断を受け、1926(昭和元)年5月、南湖院に入院しました(第九病舎)。
7月に、妻登美子が二児を連れて十間坂に移住して自宅療養が始まりましたが、翌年10月26日に亡くなりました(30歳)。

登美子は二人の子供も結核で失い、一人残されて1941年に南湖院に勤務するようになり、19455月に南湖院が海軍に接収されて閉院となる日まで事務職をつとめました。

 

 

 

 

大手拓次も南湖院で亡くなった詩人です。(1934年没、46歳)

平塚らいてう(1911(明治44)年『青鞜』創刊)

平塚らいてうと茅ヶ崎との関係は、姉が南湖院に入院したことによって始まりました。
『青鞜』2年目の明治45年、らいてう、尾竹紅吉、保持研子が茅ヶ崎に集ったため、『青鞜』編集部が茅ヶ崎に移った感がありました。つまり、明治末期の女性解放運動は、一時、南湖院が原点となったのです。

らいてうと奥村博史の運命の出会いも南湖院が舞台でした。博史かららいてうに送られた手紙の中の「若い燕」という言葉が、年下の男性の恋人を「若い燕」と呼ぶ流行語を作ることになったのです。

 

 

 

 

 

入院生活を送った文学者には、この他に、童話作家の坪田譲治、『大菩薩峠』の中里介山、詩人の秋山秋紅蓼、歌人の岩谷莫哀、随筆家で参議院議員の森田たまらがいます。

PAGE TOP